第6章 6.3 初ライブ

二度のぎっくり腰

 2001年6月3日,いつもと変わらぬ朝を迎えた。今日はおじさんバンドの初ライブである。
「うまくいきますように」
まじないめいた願いを込めながらギターの弦を張り替えてチューニングする。 午後2時過ぎ,言いようのない不安を引きずりながら家内と一緒に会場へ向かった。

 ライブ会場がある吉祥寺に行くには千駄ヶ谷から中央線に乗車する。 中野駅を過ぎると高架となり,途端に窓の向こうの風景が拡がる。 進行方向の西側に目を向けると山並みが見える。そこは関東平野の南西の端だ。 奥から見下ろすように富士山が顔を覗く。南端が丹沢である。 都心のビルに囲まれた空間からこの場所に移ると空がやたらと広く感じる。 上を向かないと望めなかった空が,目線の高さでいくらでも飛び込んでくるのだ。

 本番の3時間前にスタジオに着いた。
「ラッキー,いいタイミングに着いたぞ」
マスミのキーボードとジョーのドラムの搬入は終わったようだ。 私は太りすぎのせいもあって,腰に難を抱えている。 これまでに二度重いぎっくり腰になっているのである。

 初めてのぎっくり腰は,今から15年前のことだ。 ある時,高校時代の同級生のアラハタ君から突然連絡があった。
「久しぶりで会いたい」
という。真面目に勉学に勤しむ模範生のアラハタ君とは同じクラスだったが, いつも遊び回っている私とは目立った交遊が無かった。 アラハタ君は隣町の小金井市に住み,マスミと小学時代の同級生だったことを後で知った。 私は家の近所でアラハタ君と会った。話を聞くと,社会科の教師として母校(高校)に赴任したという。 アラハタ君が言った。
「同窓会の担当になった。創立15周年なので何かしないといけないんだけれど, 同窓会名簿ができていない。名簿作りの請負業者もあるが, お金もかかるし個人情報だから出来れば自分で作りたい」
突然の相談だった。それにしてもアラハタ君と会うのは高校卒業以来である。 なぜ親しい訳でもなかった私を訪ねたのだろう。不思議に思った。

 私は,「母校」と「名簿作り」と聞いて二つのことが頭に浮かんだ。 恩師の母校初代校長と,印刷屋を営む親友のハコのことである。私が手伝って名簿ができれば, 校長も喜んでくれるに違いない。ハコの会社に印刷の仕事が回わればハコも喜ぶはずだ。 私は校長への恩返しとハコへのささやかなプレゼントのつもりで, 一つの条件を出して名簿作りの協力を引き受けた。
「ぼくの友だちの印刷会社を使ってくれるのなら手伝ってもいいよ」

 作業場はハコに頼んで国分寺にあったハコの会社の一室を貸してもらった。 これでハコの会社を使うことが約束される。 この日から,朝は家がある原宿から勤務先の霞が関へ, 仕事が終わると霞ヶ関から1時間ちょっとの時間をかけてハコの会社がある国分寺へ, 作業が終わると1時間かけて原宿に帰る,という生活が半年近く続くことになった。 母校ができてから15年間,同窓会名簿は一度も作られていなかったのだ。 名簿作りの経験などもちろん無かったが,私は作業内容を頭に描き工程表に整理した。 予定どおり行けば半年後に完成する。ポイントはいかに無駄なお金をかけないで計画どおり進めるかだ。

 初めに同窓生の現住所の確認作業に着手した。 卒業時の名簿に記してあった住所に宛てて同窓生全員に往復葉書を発送したのだ。 その葉書の宛て名には,同窓生の名前に並べて「ご家族さま」を併記した。 往信の文面には,「創立15周年を控えて同窓会名簿を作成しているので現住所を記入して欲しい, 宛て名の同窓生が不在の場合にはご家族さまの代筆でお知らせ願いたい」旨記載した。 すると,一期生,二期生に宛てた葉書のおびただしい数が「転居先不明」などで返ってきたのである。 ある程度予想はしていたが,その数の多さに驚く。 私は仕事の関係で知り合ったワープロ入力の得意な女性に,名簿データの入力をアルバイトで依頼した。
「とくかく判っている分からでもどんどん入力していこう」
と考えたのである。

 次に最初の葉書で返信のあった同窓生全員に封書を送った。 文書の件名は,「同窓会名簿作成に係る住所不明者の照会について」である。 卒業の年とクラス毎に整理した住所不明者の一覧表を同封して,
「この中で消息が分かる人がいたら連絡してほしい」
と書いたのである。併せて名簿が完成した時の名刺広告の募集と, 購入を希望するかどうかのアンケートも実施した。名刺広告の募集は, 自前の手作業とはいえ5,000人を超える同窓生に発送する郵便代と, ワープロ入力のアルバイト代だけでも大変な出費だったからだ。 たとえ僅かでも収入の足しにしようと考えたのである。購入希望のアンケートは, 闇雲に名簿を印刷して発生する経費の無駄と, 大量の売れ残りが出て置き場に困るといった事態を避ける狙いがあった。 印刷を発注するときの部数の目処(めど)を付けたかったのである。

 この名簿作りは,アラハタ君と私のほかに,当時私の職場の近くに勤めていた同級生のシマ君も 巻き込んで取り組んだ。アラハタ君の奥さんも家事に余裕ができた時には手伝いに来てくれた。 私を含めたこの4人はボランティアである。第二弾の封書作戦で返信封筒を同封したが, 無駄が出ないように返送された封筒だけに郵便料金を後納する手続きを取った。 この手続きには高校時代の同級生で郵便局に勤めているケイちゃんが協力してくれた。

 封書作戦は功を奏し,転居先不明者の連絡通知が連日のように届きだした。 同級生からの名刺広告の申込みもたくさん届いた。 データ入力もほぼ終わり名簿の完成が見えてきたときのことである。

 職場で仕事をしていると,私の椅子の後ろを先輩が通りかかった。 通りやすいように腰掛けていた椅子を横に回した瞬間だった。腰に衝撃が走ったのである。
「捻ったか!」
痛みはどんどん増して遂には動けなくなってしまった。 半年にわたった名簿作りの疲労が腰に蓄積されていたのかもしれない。 私はタクシーですぐに家に帰ったが,あいにく家内は買い物で留守だった。 やっとの思いで部屋に辿りつき,すぐさま横になったが痛みはさらに増していく。 もう動くことも立つこともできない。痛みを必死で堪えていると電話がかかってきた。 家には誰もいない。私は激痛に耐えながら部屋を這って何とか電話機に辿り着いた。 電話はアラハタ君からだった。
「職場にかけたら帰ったって言うので,こっちにかけたんだ」
私は痛みに我慢できず,
「またかけて」
とだけ告げると電話を切った。それから5日間はまったく動くこともできなかった。 やっとの思いで楽な態勢をみつけてもすぐに激痛に襲われる。 次の姿勢を探そうとするが,体の向きを変えるにはさらに激しい痛みに耐えなければならない。 あの痛みはプールでふくらはぎを攣(つ)った時に似ている。 腰全体の筋肉が攣ってしまったような痛みなのだ。

 二度目のときは,2〜3年前のことだ。職場で荷物を持った時だ。 腰に激痛が走り,その瞬間から立てなくなった。痛みは一度目の時と異なった。 神経が剥き出しになった虫歯に物が触れたような痛みだ。 とにかく痛い。立つことも歩くこともできない。咳やクシャミもできない。 汚い話だがトイレもままならない。この時もその状態が一週間続き, 図らずも年を取った時の疑似体験をすることになった。 腰に不安を抱えている人にはトイレシャワーを勧めたい。 あの状況で腰を捻って後始末することなど到底不可能だからである。 いずれの時も職場には大変な迷惑をかけてしまったと深く反省している。

 データ入力もほとんど終わった。ここまでくれば,あとは印刷すればいい。 名簿の完成が近づいた時,私はアラハタ君に一つのアドバイスをした。
「名簿はたくさんの先生に関わってもらってできた形にした方がいいよ」
教師の世界のことは分からないが,一人で全部をやり遂げた形にするより, 多くの先生たちの手が入って仕上げた形にした方が, 同窓会に対する理解が多少なりとも深まるのではないかと考えたのである。 何しろ一度も名簿が作られていなかったのだ。彼の職場での立場も慮(おもんばか)った。 恐らく同窓会のことは教師の仕事とは直接関係が無いに違いない。半年もの時間を費やしたのである。 どこかに歪みが生じているような気がしてならなかった。また,
「あれは彼が一人でやっている」
と遠目にはばかられるような立場に追い込まれては気の毒だと思ったのだ。  私は初代校長が「全員スポーツをする」を主唱されていたことを思い出した。
「クラブの顧問にお願いして,クラブ活動状況を書いてもらってはどうだろう。 すぐ作れるように部員の人数や活動内容を書き込めるような様式をこっちで用意して, そこに埋めてもらえばいいのさ。クラブ活動の写真も入れたらいい。ミニアルバムにして載せよう。 母校らしくていいじゃないか。あと題字の揮毫(きごう)も書道の得意な先生にお願いしよう。 次のときのメンテも考えて,住所が変更になったときの連絡葉書も名簿に折り込もう」
昭和63年11月,約束どおりアラハタ君はハコの会社に印刷を発注して同窓会名簿が完成した。

 先日ジョーに
「同窓会名簿のことを思い出してエッセイに書いたよ。 ぼくも係わっていたのを知らなかったでしょ」
と電話をすると,ジョーは
「RENが名簿を送ってきたじゃないか」
と言っていた。忘れてしまったが,多分名簿の完成が嬉しくてジョーに送ったのだろう。 第3章の中で,校長と一緒に母校を訪ねたときのことに触れたが,校長はこの時の労をねぎらって, 母校の現職の校長に引き合わせてくれたのではないだろうか。 現職の校長から
「お世話になりました」 と丁重なお礼を述べられたことを覚えている。

 話は前後するが,名簿作りの主役アラハタ君と郵便局の料金後納の手続きを踏んでくれた ケイちゃんもこの日の第1回ライブに駆けつけてくれた。

必死の立ち位置確保

「リハ(リハーサル)をやるからスタンバイして」
思ったほど緊張感はなかった。ジョー,ナリジ,ショーゾーなどは,いつもよりむしろ, にこやかで晴れ晴れしく見える。ギターをアンプに繋ぎ, あらかじめ打ち合わせしてあったスタンドポジションにスタンバイした。 私の立ち位置は,打ち合わせでは客席から向かって左側の最前列だった。 この場所を決める時,私は大いに抵抗した。
「こんな目立つ場所は絶対嫌だ」
「リードが目立たないでどうするの」
どうしても変えてくれない。かくなる上は強硬手段しかない。 私は楽屋のドアを開けてステージに入った第一歩目の場所を真っ先に陣取った。 ステージの一番左奥で,ジョーのドラムの真横である。一歩下がれば楽屋のドアがある。
「楽屋で弾いていても,会場に音が聞こえていればいいんじゃない?」
冗談のつもりで言うとジョーが真に受けた。
「だめ,だめ。REN,前に行けよ」
「嫌だ」
私はテコでも動かない。
「ジョーが見えないとカウントが取れない。この場所しかうまく弾けないよ」
相変わらず私の主張には説得力がない。 ジョーは
「これ以上言っても無駄」
と思ったのだろう。 ついに折れて私の立ち位置は主張どおり一番奥に決まった。

 いよいよ本番間近である。楽屋で開演時間を待っていると,オカコが言った。
「外すごいわよ。人がいっぱい並んでいる」
意外な気がした。私は
「来てくれる人なんているのかな」
と思っていた。開場時間を過ぎると会場のざわめきが楽屋まで聞こえてきた。
「よし,いくぞ!」
誰からともなく声がかかる。照明を落して真っ暗なステージにスタンバイした。 オープニングは「Get Back」だ。
「ジョー,ゆっくり,ゆっくりね」
私が声をかけると,ジョーが頷いた。本番ではアドレナリンが出て,いつもよりテンポが速くなるらしい。
「プロでもそうなんだよ」
とジョーが言っていたのを思い出したのだ。 速くなりすぎると私のソロの「たたったたん,たたったたん」という間奏のリズムに指がついていかなくなる。
「ワン,ツー,スリー,フォー」
ジョーのカウントで「Get Back」が始まった。
「あれ?緊張しないぞ」
苦労して確保した立ち位置が功を奏したようだ。1曲目,2曲目と無難に終わった。 オープニングは打ち合わせどおり間髪入れずに3曲を演奏する。 次は「I've got a feeling」である。

 ショーゾーが担当するこの曲のサイドギターは,長時間左手をいっぱいに拡げたままの状態で演奏する。 曲の終わり頃には指が痺れて感覚が無くなるという厄介な曲である。 曲のイントロは,ショーゾーの2小節のソロから始まる。うまく音が出ていない。 弦の押さえ方を失敗したみたいだ。私は
「ショーゾー,頑張れ」
と小さな声をかけた。隣のジョーを見ると,焦るショーゾー尻目に笑っているではないか。 不謹慎にも私までつられてしまった。

 前日の練習場所を提供してくれたコツは,
「皆と同じ3時に会場に入るから」
と言っていたが,約束の時間になっても姿が見えなかった。 リハが始まる直前,肩からショルダーを下げたコツが現れた。 本番が始まると,デジカメを手に客席を縫いながら会場を動き回っている。 かと思うと,PA室に移動してスタッフの操作を横目で眺めている。 その様子は,良く言えばちょっと偉そうな従業員,悪く言えば中年の見習い従業員のようだった。 2曲の演奏が終わって2回目のMCとなった時である。 カメラを手に客席の最前列に移動してきたコツに向かって突然ジョーが叫んだ。
「おお,コツだ,コツ!おーい」
ジョーは仕事の都合で,前日の練習に参加していなかった。 ジョーとコツの対面はこの日が26年ぶりだったのである。 ライブが終わった後でジョーが言った。
「ライブハウスのおっさんがウロウロしているから邪魔だなぁ,と思っていたら, そうだ!あれがコツだ!って突然に思い出したよ」

クボちゃんの思い出

 第3章で書いた高校時代の中学校での録音に参加したクボちゃんもこの日のライブに来てくれた。 クボちゃんは名古屋への出張の帰路に立ち寄ってくれたのである。 おじさんバンドのメンバーではないが,大先生となって活躍しているクボちゃんの思い出を紹介する。

 クボちゃんはナリジと私の小中学校時代の同級生で,コツとオカコの中学校時代の同級生である。 小学1年の時,同じクラスでよく遊んだ。昔から勉強がよく出来る神童だったが, 勉強だけでなく相撲も強く,テニスもうまかった。小学校の高学年までよく相撲をとった。 クボちゃんは太っている訳ではないのに腰が重く,勝負はいつも勝ったり負けたりの五分五分だった。 中学2年の時も同じクラスになった。クボちゃんの机を見ると,分厚い教科書が置いてある。 日本史の教科書だ。
「同じ教科書なのに何でこんなに厚さが違うんだ」
不思議に思った私は中を見せてもらった。開くと一面に鮮やかな彩りが施されている。 教科書を読むたびに,色鉛筆の色を変えて線を引いているのだ。何度も線を引いているうちに破れてくる。 するとセロテープを貼って,その上からまた色を変えて線を引く。 私は芸術的に彩られたクボちゃんの教科書が気に入った。
「ぼくも,ああしよう」
12色の色鉛筆を使って真似するものの,どうしてもクボちゃんのように綺麗にならない。 何度も線を引いているうちに,私の教科書は見るに耐えない物と化してしまった。
「REN,いくら線を引いても覚えないとダメなんだよ」
クボちゃんのアドバイスが心に突き刺さった。
「分かってはいるけれどこんな汚いの二度と見たくもない・・・・・・」

 クボちゃんは中学卒業後,名門私立武蔵高校に進学した。 中学校でのバンドの録音に参加したのは2年の時だ。 私は
「こういう楽しいバンド遊びもあるんだぞ」
と教えたくて誘った気がする。前からクラシックギターを習っていたクボちゃんは, 私の誘いに応じてくれた。 クボちゃんは,ビートルズの「And I love her」のクラシックギターの部分を担当した。 間奏のソロが無事終了すると,次は歌に合わせてアルペジオを入るのだが, クボちゃんは不覚にも転調を忘れてしまう。 このときのミスがそのまま第4章で触れたマスミが見つけたテープの録音に残っている。

 その後クボちゃんは東大の文科1類に入学する。もちろん現役である。 法学部第3類を4年で卒業し,卒業したその春に東大法学部の助手に採用された。 オラが町の神童は日本の最高学府でも大変な存在だったのである。 その後,筑波大学社会科学系の講師となった。コーネル大学の歴史学部に客員研究員として 赴く前のことである。アメリカに旅立つクボちゃんに, 私は
「何か欲しいものがあったら送るよ」
と言った。すると意外にも
「コボちゃん」
のリクエストが返ってきた。私はアメリカ滞在中のクボちゃんに,「コボちゃん」の単行本を何回か送った。

 その後クボちゃんは帰国してから慶應義塾大学に職場を移し, 法学部の助教授を経て36歳の若さで教授になった。その後,朝日新聞などで日米問題をコメントする クボちゃんをちょこちょこ目にするようになる。ライブを行う前のことだ。 職場で外務省が編集協力している「外交フォーラム」が回覧されてきた。 中を捲(めく)ると,クボちゃんが新しく誕生したブッシュ政権について外務省北米局長や 日本政治学会の著名な先生たちと対談しているではないか。 写真を見ると一番若いのに腕組みなんかしている。 その後で,小泉首相の諮問機関「首相公選制を考える懇談会」の政府委員に就任したことを新聞で知った。 今や大先生となったクボちゃんだが,私はライブの案内を送ってみた。 クボちゃんはそれに応えて出張の荷物を持ったまま会場に駆けつけてくれたのだ。

 クボちゃんはライブ終了後の打ち上げにも最後まで付き合ってくれた。
「昔から頭が良かったけど,未だに良いとは何て進歩の無いやつなんだ」
私のつまらないジョークにも爽やかな笑顔を返してくれる。 この打ち上げの席で,私はクボちゃんにあるお願いをした。 私の職場で行っている研究会の講師をお願いしたのである。クボちゃんは
「仕事の話は後で」
と言いながら快く引き受けてくれた。私の職場の研究会は昭和48年から続いている歴史のある会合である。 これまでの講師は日本を代表される大変な先生ばかりだ。出席者も政府関係者が多い。 講演の当日,クボちゃんの到着を待っていると,エレベーターが開き,少し前かがみの姿勢で 私を探すクボちゃんが目に入った。その姿勢と顔に見覚えがあった。
「そうだ,中学校でやった録音の時と一緒だ」
中学校の音楽室でナリジやジョーたちと録音していると,クボちゃんはギターが入ったハードケースを手に 少し遅れて音楽室に現れた。あの時と一緒だったのである。

 講演の最初の挨拶でクボちゃんが言った。
「後ろにいるREN君と私は小中学校時代の同級生です。 小学校の入学式の時,彼は一番背が高く,私が二番目に高かったので, 二人で手をつないで入場したことを覚えています。時を経てお互いの仕事を挟みながら このような機会に恵まれたことを大変嬉しく思います」
講演の内容は漏れなく機関誌に収録しているが,さすがにこの部分は省略した。 恥ずかしくもあったがクボちゃんの心遣いが嬉しかった。 ブッシュ政権の外交政策についての講演は大好評だった。 講演が終わると役員から
「RENさんはいい友だちを持ったね」
と温かい声をかけていただいた。クボちゃんありがとう。

 去年(2002年)7月に行った二度目のライブでは, 1年前から決まっていた神戸大学での集中講義とぶつかって残念ながら出席できなかったが, 年賀状に
「ライブに行けなくて恐縮です」
と丁寧に書き添えてくれた。今年の3回目のライブには是非とも来ていただきたいものである。 どんなに勉強ができても,どんな有名校に進学しても,どんな大先生になっても, いつも出来の悪い私に気持ちよく付き合ってくれたクボちゃんのさらなる活躍を陰ながら応援していきたい (このエッセイを書いた後の2003年4月,クボちゃんは母校の東大に戻り,法学部教授に就任した)。

針の筵(むしろ)の「Woman」

 ライブは順調に進行していく。山ちゃんのMCは機転がきいて実にうまい。 去年のライブでも山ちゃんがMCを務めたが,念を入れてあらかじめおしゃべりの段取りを整理していた。 何も用意しなかった一昨年の第1回ライブの方が良かったと感じたのは私だけだろうか。 観客の笑いが絶えなかったのだ。それにも増して強力な助人が現れた。山ちゃんの二人の子供である。 山ちゃんのMCに合わせて絶妙のあいの手を入れてくる。 山ちゃんの子供が何かしゃべるたびに会場は爆笑の渦となった。 去年の第2回ライブでもこのやりとりを期待したが,二人とも大人になってしまったのか,残念ながら元気な声は聞こえてこなかった。

 オカコのMCで第二部が始まった。最初はオカコが歌うアン・ルイスの曲「Woman」である。 この曲はハードな音色の私のギターから始まる。 第一部のビートルズが比較的うまくいったこともあって気持ちが緩んだ訳でもないのだろうが, 出だしのイントロで不覚にもつまずいてしまった。 すると,それまで忘れていた緊張感が一気に全身を覆った。頭の中が真っ白になる。この曲は間違ったことがなかったので, あまり練習していなかったのだ。間奏になるとさらにひどいことになった。 チョーキング(弦を持ち上げる演奏法)するポジションを1フレット(半音)間違ってしまったのだ。 むりやり弦を持ち上げて帳尻を合わせようとするが,どんどん泥沼にハマっていく。
「歌だけはどうにか無事に歌い遂げて・・・・・・」
必死で願った。針の筵(むしろ)の「Woman」がどうにか終了した。

 オカコが終わるとおじさんバンド自慢の歌姫たちの登場だ。 ジョーのお嬢さんのリカちゃんを皮切りに,ナリジのお嬢さんのアズミちゃん, ジョーのご近所さんのカオちゃんと続く。
「リカちゃ〜ん,おじさん来たよ〜〜」
会場の消防団員から熱い声援が飛ぶ。この消防団には,ジョーの地元商店街の人たちが参加している。 全員根っからの酒好きのお祭り好きで,大騒ぎが大好きな人たちだ。 何歳になっても青年のような楽しい面々である。騒ぎの度合いもハンパじゃない。 おじさんバンドのメンバーは,練習後の飲み会で団員が現れると畏敬の念を抱いて
「消防団だ!」
と恐れおののく。
「ササキ〜!マジメにやれ〜!」
すでにかなりの酒量入っていることが想像できた。

心地よい達成感と楽しさに包まれて

 とれあれ,おじさんバンド結成後の初めてのライブは,多少の失敗はあったものの和やかなうちに幕を閉じた。 第2章で書いたジョーのグレコのレスポールを燃えないゴミに出してしまった中学・高校時代の同級生, イッケイの姿もあった。小金井公会堂でのライブのメンバーで, おじさんバンドに参加できなかったキーボード担当のツカも忙しい中を駆けつけてくれた。 ツカは私とジョーとオカコの高校時代の同級生である。成績一番で入学したツカは, 入学式で新入生代表の挨拶をした。高校時代からキーボードがとにかくうまくジャズが好きだったツカは, おじさんバンドの話が出た時に参加を呼びかけたが,残念ながら叶わなかったのである。 ツカは第4章で書いたジョーの彼女の高校で一緒にライブをやった一人・アツオと一緒に来てくれた。

 中学時代にクボちゃんと仲が良かったもう一人のアツオ君も来てくれた。 少女漫画家として活躍している中学時代の同級生の奥さんも一緒だ。
「今年からトランペットで高校生の娘をおじさんバンドに参加させたい」
と言ってくれた小中学校時代の同級生女性も,今年横浜市議会議員に立候補するという同級生の女性も, 青春時代を共に過ごしたハコも来てくれた。

 「一族郎党の大集会」兼「出演者それぞれのクラス会」兼「地元商店街,消防団の大親睦会」ともいうべき, おじさんバンドの第1回のライブが終了した。 心地よい達成感と何とも言えない楽しさが心地よく全身を包む。忙しい中をご足労下さった皆さんと, 楽しいひとときを共にできたおじさんバンドの面々にただただ感謝するばかりである。

第7章 拡がり続ける仲間の輪

第1章 再会
第2章 悪戦苦闘の楽器店通い
第3章 過去と今の連鎖
第4章 小さな思い出の復活
第5章 いざライブ!(コツ登場)
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