第3章 過去と今の連鎖

4人でスタート

楽器もどうにか手に入れた。いよいよおじさんバンドの活動開始だ。
「みんな,やりたい曲があったら書いて」
ナリジからメールが入った。私の頭の中にある音楽データは25年前からまったく更新されていない。 果たしてギターは弾けるだろか,一抹の不安はあるものの,ナリジと初めて合わせた中学時代のレパートリー, ビートルズの「ゲットバック」をリクエストすることにした。
「前にタモリさんのペット(トランペット)と遊びでセッションしたことがあったけど, エレベ(エレキベース)に触るのはそれ以来だ。まったく指が動かない。25年のブランク恐るべし。 “ゲットバック”オッケーよ。娘が歌いたいって言っているけどいいかな? 椎名林檎の“正しい街”と“丸の内サディスティック”をリクエストするね」
ナリジから返信が届いた。私の不安をよそにナリジのメールからは余裕が伺える。 続いてジョーからメールが届いた。
「ビートルズをやるなら“Don't let me down”をやろう。ビートルズで唯一ソウルを感じる。 あと,Misia。うちの娘が歌うからよろしくね」
かくして,おじさんバンドに眩しき華が加わることになった。 昔,パートリッジ・ファミリーというアメリカのファミリーバンドがあった。 日本でも人気のテレビ番組になっていたが,一族で楽しそうに奏でる姿に憧れたものだ。 まさかこの年になってあれを体現できようとは。 過去の予測を超えたところで展開しているおじさんバンドの人間模様に何とも言えない面白さを感じてやまない。

 初めての練習は,国分寺市の公民館のスタジオを借りてジョー,ナリジ,ショーゾー,私の4人で行った。 私が公民館を利用したのはこれが初めてだった。日曜にもかかわらず,たくさんの人たちが利用している。 合唱や詩吟を楽しむ人たちの和やかな雰囲気の中にも一生懸命な歌声がどこからともなく響いてくる。 スタジオは地下にあった。小さな窓から中を覗くと若者たちが練習に精を出していた。 私の子供くらいの年齢だろうか。
「お待たせしました」
「お疲れさま」
自然に挨拶を交わしながら入れ代わる。この若者たちには,我々おじさんバンドの面々がどう写っているのだろうか? 不安だらけの私には,そんな些細なことでも気になって仕方がない。

七重の塔跡の瓦

余談だが,私が幼少期から高校時代までを過ごした国分寺市を紹介する。 国分寺は新宿からJR中央線の特別快速に乗って21分の距離にある。 私が小学4年生までは「東京都北多摩郡国分寺町」だった。 封筒や葉書の宛名には「東京都下国分寺町」と書かれていたことを思い出す。 府中街道の泉町交差点(ローカルですみません)に市内で第一号の信号機が取り付けられた時には,朝礼で校長から
「赤信号は止まる。青になってから渡るのですよ!」
と教示された。今でこそ閑静な住宅街だが, 中学時代までは近くの立川基地から離発着する米軍機の騒音に悩まされたものである。 立川基地は,今では返還されて昭和記念公園となっている。 駅から20分ほど歩いた所に,かろうじて武蔵野の面影を残した武蔵国分寺跡がある。 この寺は741年に聖武天皇の勅願により,全国に建立された国分寺,国分尼寺の一つである。 当時の寺は,1333年に新田義貞と北条泰家が戦った分倍河原(ぶばいがわら)の合戦で焼失し, 今では礎だけが残る草むらになっている。

 この広い草むらは,私たちの遊び場になっていた。そのはずれに七重の塔跡がある。 七重の塔跡の広場には,分厚い瓦がごろごろと落ちていた。小学生だった私は,友だちと空手の瓦割を真似して遊んだ。 小学生の幼い手では到底割れるものではない。友だちの目を盗んでは足で踏み,
「ほら,手刀で割ったぞ」
などと嘯(うそぶ)いたものである。 何年か前になるが,久しぶりで国分寺を訪れ,境内の片隅にある小さな資料館に入ってみた。 するとどうだろう。この地で発掘された縄文土器などと一緒に見覚えのある瓦が展示してあるではないか。 七重の塔で使用していた瓦のようだ。紛れもなく私が足で踏みつけて割っていたあの瓦である。 私たちは貴重な文化遺産を遊び道具にするどころか,足蹴にして粉砕していたのである (後にメンバーに加わるエーちゃんは,この瓦を家に持ち帰ったそうだ)。 1333年に七重の塔が焼失してからずっと瓦が広場に放置してあったことにも驚いたが,何と罪深い話だろうか。 私は冷や汗をかきながら,資料館を後にして七重の塔跡を訪ねてみた。 今ではさすがにひとかけらの瓦も残されていなかった。

シゲの参加

 国分寺での初めての練習は,予想どおりのボロボロだった。 昔は特に意識することもなく,感覚で合わせていた間(ま)がどうにも合わない。 カウントを刻んでも一向に合わない。「ゲットバック」の間奏のギターソロで, 「たたったたん たたったたん」とリズムを刻むところがあるが,曲のテンポに手が追いつかない。 25年という歳月は私から音楽で最も大切なリズムをきれいに奪い去っていた。 そんな私とは対照的に,ジョーとナリジはさすがである。リズムに狂いが無い。 意外だったのはショーゾーだ。これがまた予想外に上手いのだ。 弦を押さえる指は滑らかに動き,チョーキング(弦を押さえた指で持ち上げて音程を変える弾き方) もきれいにビブラートさせている。気持ちばかりが逸ってしまった。 皆の足を引っ張らないようにと思えば思うほど,リズムは狂ってくる。 ともあれ,久々のバンド演奏は実に楽しい。私はこの思いを共にする純粋な目的が半分, 自分のボロ隠しの道づれを探す不純な目的が半分で二人の人間をメンバーに誘うことにした。

 一人が私の弟・シゲである。弟は泌尿器科の医者をしている。 初めは獣医大学に入学したが,「生存させるか生を絶つか」の選択が常に付きまとう獣医の世界に疑問を感じ,
「最後まで生に最善を尽くす医者の道に進みたい」
と大学受験をやり直して医師の道に進んだ。確か弟はレコードをたくさん持っていた気がする。 ギターも持っていたはずだ。弾いているところを見たことはないが,音楽好きには違いない。 私は楽しみを共にする目的をもって,シゲにバンドへの参加を呼びかけた。
「え,いいなぁ。やりたいなぁ。ぼくもいいの?」
シゲの反応である。シゲはナリジやジョー,ショーゾーと面識はあるものの,一緒になって遊んだ記憶はない。 私はメンバーに電話した。
「弟が参加したいって言っているけど,いいかな?」
「もちろんオッケーさ」
全員から二つ返事が返ってきた。二度目の公民館での練習日のことである。 朝起きて間もなくすると,シゲから電話がかかってきた。
「今日練習だよね。どうしようかな・・・・・・」
「来たらいいよ。皆には話してあるから」
「よろしくお願いします」
昼食を済ませ,ギターをケースに入れて出かける準備をしていると,また電話がかかってきた。 「やっぱり,いいや。皆よく知らないし。ありがとうございました」
「わかった。やりたくなったら,また電話ちょうだい」
シゲが遠慮するのも無理はない。何しろメンバーは私の同級生だ。その私とて25年ぶりで再会したのである。
「残念だけど,縁がなかったかな」
そう思いつつ駅に向かって歩いていると,またまた電話がかかってきた。
「やっぱり,やりたい。行ってもいい?」

 時間より早く公民館に着いたおじさんバンドの面々は,事務所の隣にある待合室でスタジオが空くのを待った。 するとシゲがハードケースから年期の入ったセミアコを取り出した。
「お!335(サンサンゴ)だ。かっこいい。ちょっと弾かせて」
即座にジョーが反応した。やった,高校時代に私が衝撃を覚えた伝説の「ハートブレーカー」(グランドファンク), 若しくは「地球はメリーゴーランド」(ガロ)が聴ける,と思いきやコードを2,3爪弾いただけでシゲに返してしまった。 ちょっと拍子抜けである。

 335とは,ギブソンのセミアコ(セミアコースティックギター)で名器らしい。 ブルースを好む人たちが愛用しているようだ。ナリジが笑いながら言った。
「でも,あんまり弾いてないみたいね」
シゲの335は糸巻と弦が,触れただけでその錆が伝染するのではないかと思えるほど,ものの見事に錆びついていた。 暫くするとスタジオを使っていた若者たちが事務室に鍵を返しにきた。 シゲは335を抱え,ブルース風のアドリブを弾きながらスタジオに向かって歩きだした。 若者の視線がやたらと気になる私からすると考えられないことだ。 私は見知らぬ人に自分のギターを見られるだけでも恥ずかしくてたまらない。 それに比べてシゲのとった行動は,電話で見せたあの躊躇からは想像できない大胆さである。 これが人の生死と常に向き合い,時には患者の家族を思いやり, 時には鬼となって過酷な宣告をしなければならない医者という職業人の成せる業なのか。 かくして弟のシゲがメンバーに加わった。

オカコを道づれに

 私の道づれという目的を6割,楽しみの共有の目的を4割の比率をもって, 中学,高校時代の同級生オカコをバンドに誘うことにした。オカコを誘ったのは, おじさんバンドの話があった直後に開かれた高校時代のクラス会がきっかけとなった。 すっかりとおばさんと化した同級生のご婦人方の中にあって,照明効果も手伝ってかオカコは比較的若そうに見えた。 ジョーは隣のクラスだったので本来はこのクラス会への参加資格が無かったが, 私が幹事に頼んで特別参加の枠に加えてもらっていた。ジョーとオカコは,それまでまったく接点が無かったのだ。 クラス会の二次会で,私の側に座ったジョーが隣のオカコに言った。
「あなたはこの中で光っていますね」
多分このくだりは後でジョーが否定すると思うが,この一言がオカコを誘う決め手となった。 一緒にバンドを楽しむには好印象がなければ不協和音を生じて長続きしないと思ったからである。 私とオカコは高校時代から比較的仲が良かった。オカコは歌が上手かった記憶がある。 ベッツイ・アンド・クリスの「白い色は恋人の色」という曲で, 当時流行っていたテレビ番組の「スター誕生」のオーディションを受けたこともある。 この時は惜しくも二次審査で落ちてしまった。

メンバーとなったオカコは私の期待を裏切らなかった。 歌はうまいのだが,1小節の区切りが微妙にずれる得意技の持ち主なのだ。 我々の伴奏と合わせると歌い出しが,なぜか1拍ずれる。それでも本人は気づかずに歌い通す。 ジョーはドラムを叩きながら大笑いである。 2002年の第2回ライブで,後にメンバーに加わる山ちゃんと「星空の二人」をデュエットしたが, 山ちゃんが伴奏に合わせてちゃんと歌っているにもかかわらず,
「間違っているわよ」
と言わんばかりに,山ちゃんの袖を引っ張り,1拍ずれている自分のペースに引きずり込む。 またしてもジョーがドラムを叩きながらひっくり返らんばかりに大笑いをする。 練習スタジオでは出番が来るまで,隅っこに座り込んでウォークマンを耳に,必死で自分のパートを聴き込んでいる。 いつもスタジオで元気がないので心配するが,どうして,どうして。 練習後の飲み会になると,打って変わって途端に元気一杯の主役に早変わりする。 ラルフローレンのバイヤーを勤め,アメリカにちょこちょこ出張しているオカコは, おじさんバンドの会計係と飲み会での注文係を担っている。

高校の校長の思い出

 さて,あらまあーさんから聞いて驚いたのだが,Jgameの皆さんは私を優等生と思っている方が多いらしい。 とんでもない話である。私の知人にとっては,言わずもがなことであるが,誤解を受けたままでは, PCに向かってネット麻雀をしていても,どうにも椅子の座りが悪くて落ち着かない。 恥を凌んで高校時代の一端を紹介するので,どうか誤解を清算いただきたい。

 私は勉強が大嫌いだった。テスト前ですら一向に机に向かおうとしなかった。 当然テストの結果は推察のとおりとなる。
「勉学に奇跡など存在しない」
これは経験から得た私なりの結論である。 それでも自分より成績が低い者がいるかどうかを気にかけていたところは, まだ救いの道が残されていた証だったのかもしれないが,心を入れ換えて更生しようなどという気は毛頭起こらなかった。 私の周辺では,答案が返されると決まって繰り返される恒例行事があった。 それは始発駅の私から始まる。答案の点数を確かめると,
「あいつの方が当然低いはず」
とばかりにA君の点数を探りに行く。下の存在を確かめては束の間の安堵感に浸るのだ。 さて穏やかでないのはA君である。A君はさらに点数が低そうなB君を探し出す。 さらにB君はC君を,といった光景が何度か繰り返されて,終着駅のD君にたどり着く。 私にとってD君は麻雀に例えるところの「安全牌」である。 しかし,いくら安全牌を蓄えていても役作りの努力をしなければ,点棒をゲットすることはできない。 それが分かっていながら一向に勉強しようとしないところに指定席に甘んじている安全牌たちの勉強嫌いたる所以がある。

 成績優秀組の周辺では,逆の現象が生じていたのかもしれないが,残念ながら経験が無いので紹介できない。 バンド活動が盛んになりだした高校2年の1学期まではまだよかった。 テストの点数に結びつく微々たる知識の蓄積にも多少の余力があった。手持ちの安全牌に余裕があったのだ。 しかし,燃料を補給しない自動車は,いつかはガス欠となりエンストをおこす。 2学期になると,いつの間にか私が終着駅となってしまった。「逆安全牌現象」である。

 私の高校は新設校で私は2期生だった。1年の時には卒業生どころか3年生もいない。 歴史のない新設校では,学校行事やクラブ活動などすべて自分たちで新しく築いていかなければならない。 そのせいもあってか,教師やクラスメイト間の信頼関係が厚く, 催しなどがあると男女関係なくクラスが一致団結して取り組んでいた。私のクラスメイトと, ハコ(第1章で登場した中学時代の同級生)の高校のクラスメイト30〜40人が大挙して私の家に押しかけ, 全員で泊まっていくという考えられないような出来事も平気で何度かあった。ハコも新設高校の1期生だったのだ。 Jgameユーザーのミーコさんに私の高校生活を話したことがある。
「ひと昔前の学校のようだ」
と感想を述べられたが,あるいは新設校という環境にその要因があったのかもしれない。

 私がこの高校を受験したのには訳があった。話は小学4年生にさかのぼる。 野球少年だった私は,夏の練習がない日には決まって近所のプールで1日の大半を過ごしていた。 もともと水泳は得意だったが,監視員のアルバイトをしていた大学生のお兄さんと親しくなり, 同級生数名と競泳を教わるようになった。そのお兄さんのお世話で市の水泳大会に出場しては, 仲間うちで上位を独占し,ゲットした賞品をプールサイドの一角に集めて大はしゃぎしたものである。

 そのお兄さんの家は,私が通っていた小学校のすぐ近くにあった。 学舎の3階まで上れば,教室と反対側の廊下の窓から家の中までが一望できる距離だった。 お兄さんの家の庭には卓球台が置いてあった。私は授業が終わるとお兄さんの家に飛んで行く。 いつしかお兄さんの家の卓球台は私たちの格好の遊び場となった。そこに行けば誰かしら友だちと遊べたのだ。 お兄さんのお世話で,同級生と市の卓球大会にも出場し,まずまずの成績を残していた。 まずまずというのは,市内にあった私営卓球場のクラブチームも出場していたからだ。 さすがにそのチームにはどうやっても敵わなかった。このお兄さんには私より4つ年上の弟がいた。 私が中学生になると,その弟さんと同じ野球チームでバッテリーを組むようになった。 私のチームは,大人に混じって市の野球大会に出場し常に優勝を争っていた。

運動好きな私を指導してくれたこの兄弟には少し離れた市にある中学校の校長を勤めるお父さんがいた。 小学生の私から見るとお父さんというよりは,おじいさんと言った方が正直な印象だった。 ある時そのお父さんが言った。
「今日の教師の卓球大会で準優勝だったぞ」
「準優勝!おじさん,すごいね」
「ん?去年は優勝だったんだぞ。どれ私とやるか?」
「こんなおじいさんに負けっこないやい」
そんな意気込みで挑んだものの,まったく歯が立たない。 お兄さんの家の庭から卓球台が消えるまで,とうとう一度も勝てなかった。 このおじいさん,いやおじさんこそが母校の新設とともに中学校の校長から母校(高校)の校長になられた先生だったのである。

 私が終着駅となりさがった日曜日の早朝,校長から家に電話がかかってきた。
「REN,担任のところに成績を聞きに行った。明日の職員会議で間違いなくお前の名前が出る。 言い訳を用意して今から家に来なさい」
私の出来の悪さがついに校長の知るところとなってしまった。言い訳など思いつくはずもない。 なるようになれとばかりにノーガードのまま校長のお宅を訪ねた。校長は開口一番言った。
「お前は入学した時はまあまあだったのに,今の成績はどうした。女か?」
校長という立場とはあまりにも似付かわないストレートな物言いに呆気に取られたことを覚えている。 詳しいやりとりはさすがに忘れたが,
「私は勉強が嫌いです」
と訴えた記憶がある。校長は意外にも終始穏やかだった。小学生の頃から庭で遊び回り, 運動ばかりしていた私をよく知っていたからかもしれない。校長が言った。
「お前たちは恵まれている。全員私が集めた先生に教わっているのだからな」
そして先生方一人一人のことを話して下さった。
「職員会議で本人が次は頑張ると言っている,と言っておく。次は本当に頑張らんといかんぞ」
確かそんな有り難い結びで解放されたと思う。後日担任の教師から職員室に呼ばれ,
「お前と校長は一体どういう関係だ?」
としつこく聞かれた。

 高校を卒業してからも,校長とは親しくお付き合いしていただいている。 私が働いてからも校長の家に遊びに行ったり,校長が私の家にも遊びに来て下さったこともある。 一緒に母校を訪ねたこともあった。校長は母校の現職の校長に
「私の友だちのRENです」
と紹介して下さった。「友だち」との思わぬ格上げに大いに照れたものだ。 気持ちが大きくて心優しく温かい,校長は私にとって最大の恩師であり,尊敬すべき人生の大先輩である。

 何とも恥ずかしい青春の一コマだが,この時の安全牌の精神とクラスメイトとの繋がりが, 25年経っておじさんバンドの活動に生かされた。 かつての人間関係や経験が思いがけないところでひょっこりと顔を出しては今の生活と連鎖する。 これがあるから人生はやめられない。

第4章 小さな思い出の復活
第5章 いざライブ!(コツ登場)
第6章 6.3 初ライブ
第7章 拡がり続ける仲間の輪

第1章 再会
第2章 悪戦苦闘の楽器店通い
トップページ